ツイノベとかのまとめ

twitterで投稿したツイノベをまとめています(@ukeiregaohayai)

桜智

濡れた舌が上下の唇をつうと撫でていく。おずおずと口を開くと、桜智さんはうっとりと溶けた瞳で、ほうと溜め息をついた。顎の周りにその熱い呼気を感じる。くちづけをしてもいいかい、なんて聞くのは恥ずかしいからやめてほしいけれど、照れ隠しでも「やめて」なんて言えなくて。


例えば彼女が笑うなら、その喜びを何倍にもして散りばめて、これから私に起こりうる全ての幸福を贈りたい。例えば彼女が泣くのなら、その痛みを何倍にもして借り受けて、これから彼女に起こりうる全ての痛みを引き受けたい。幸せと痛みが同じだけ降りかかるのなら、彼女と私の半分を取り替えればいい。


彼女の涼やかな歌声が、春の日差しの中を滑っていく。なんの歌だい、と聞くと、恋の歌ですよ、と答えた。いつの日か遙かに焦がれたその想いは今、私の隣で夢の調べを奏でている。春告鳥が来たと言って庭の樹を指差す彼女を、後ろから包むように抱きしめた。


君が私の名を呼ぶ。そのたびに私の心はどうしようもなく高ぶって、その先の至福をあれやこれやと期待してしまう。けれど、君はいつも私の期待を裏切ってしまう。いつだって君は、こんな私の手に手を重ねて、照れくさそうに笑うから。夢見た以上に温かく、甘美な幸福をくれるから。


桜智さんの指が私の髪を弄んでいる。湯上がりの髪はまだ濡れていて、毛先が指から滑り落ちるたびにぱらりと音がする。このまま寝てしまいそう。いけない、と小さく頭を振ったら、寝てもいいよ、と先を越されてしまった。桜智さんの広い胸に背を預ける。生ぬるい夜風が浴衣の裾を揺らした。


すっと伸びた姿勢が好きだ。脚をきちんと揃えて座るしぐさが好きだ。そのつま先のようすが好きだ。膝に添えた指の、桜貝のような爪が好きだ。可憐な横顔が好きだ。唇の形が好きだ。少し俯いたときに睫毛が作る影が好きだ。大好きだと伝えると、君はいつも笑う。「知ってるよ、桜智さん」


長い髪をぐいと結い直して、彼女は腫れた目を見開いた。泥に汚れた靴で土埃舞う路地を駆ける。皺になった着物が生臭い風に揺れる。その細い肩に背負うものの重さは杳として知れず、私はただ震える指の先に透ける睡蓮の花を見ていた。「私が、みんなを」。その願いのなんと残酷なことだろう。


あれからふとした瞬間に、砂が零れ落ちるような微かな音が聞こえることがある。どうやらこれは私にしか聞こえないらしく、周りの人間に尋ねても不可解な顔をされるばかりだった。あれはきっと、私にこの花をもたらした彼女の心の臓の音なのだろう。空蝉の世は今日もさらさらと音を立てて過ぎてゆく。


玄関に入ると、すぐに紅茶の香りが漂ってくる。濡れた傘を片付けているところにやってきた桜智さんは、皿を拭き拭き「おかえり、ゆきちゃん」と言って微笑んだ。「紅茶、いつもありがとう」「砂糖も入れてあるよ」冷え切った指に差し出された桜智さんの大きな右手は、今日も温かかった。


触れねば知れ得ぬ痛みがあると つうと跡を追う白魚の指 ふるり震えた身体の先に あるのは君の博愛の供物


以前、クリスマスには贈り物をするのだと言っていたから。だから、その……これを。君はそのままで充分すぎるほどに輝かしく眩く、美しいけれど……そんな君の身を飾るのなら、あの目付殿の首飾りではなくて、どうか……私が、ゆきちゃんの……こ……恋人である、しるし、として。


「調子はどうだい」眠い目をこすって土間に出ると、桜智さんがお鍋から立ち上る湯気の中で心配そうな顔をしていた。「かなり楽」看病してくれてありがとう、と言い掛けたところで、こちらに倒れるようにして長い腕が伸びてきて、口が塞がる。抱きしめる腕は力強く、呟く声は少し震えていた。