ツイノベとかのまとめ

twitterで投稿したツイノベをまとめています(@ukeiregaohayai)

めぐる日々(遙か2/泰継)

「今日は何時に帰ってくる?」
「十八時頃ですかねえ。図書館で調べものしたいのでもう少し遅くなるかもしれません」
「……」
「もう、どうしたら納得してくれるんですか」

 毎朝繰り返される同居人の不機嫌そうな問いに、スーツ姿の花梨は眉を下げてため息をつく。
 ため息と同時に鞄を提げていた腕を下ろすと、中の書類が弾んでボスンと鈍い音を立てた。
 かつて四方の札を手に入れるために都中を歩き回った龍神の神子の両足は今、企業からの内定を得るために街中を歩き回っている。
 高倉花梨、就職活動生である。

 泰継を連れて元の世界に戻ってきた花梨は、高校を卒業したあと、進学のために親元を離れることとなった。学校はそれほど離れた場所ではなかったが、本人たっての希望と、なんとかには旅をさせよを教育理念とする両親の意向が一致し、学校近くのアパートが花梨の新しい家になった。
 しかし、そこで問題になったのは泰継の居住場所である。
 現代にやってきた際、龍神は泰継に相応の肩書きと仕事を与え、花梨の自宅の近くに住まわせた。花梨は異世界にひとりで放り出されるのは可哀想だといってその暮らしぶりを心配していたが、元来の適応力か年の功か、泰継はすんなりと現代人の群れに溶け込んでいった。
 それから数年が経過し、かつての地の玄武は外見上すっかり現代に馴染んでいたが、その中身はたったひとりで異世界に放り込まれた、しかもたった数年前に初めて「人」となった存在である。
 花梨との物理的な距離が広がること、そして花梨が身を置く生活環境の劇的な変化は、泰継が言いようのない不安に苛まれるのに充分すぎるほどのストレスだった。

「それなら、一緒に住めばいいんじゃない?」
「え?」
「だって、泰継さんでしょう。泰継さんなら何も心配ないじゃない。お父さんも反対しないと思うわよ。家賃も安上がりになるし」

 泰継との同棲、もとい同居を提案したのは、他でもない花梨の母親であった。
 今までご近所だった恋人と離れるのが寂しい、とそれとなく打ち明けたことに対する返答がこれである。てっきり「学生が男のことで振り回されるな」なんてことを言われるだろうと思っていたため、拍子抜けしてしまった。
 十代の娘を持つ母親が娘に同棲を勧め、挙げ句の果てには「一人暮らしよりも防犯上いいんじゃない?」などと言い出す始末である。旅をさせるどころか、海賊に引き渡すような暴挙だと言ってもいい。
 泰継がそれほど両親の信頼を得ていたとは知らなかった。確かに、それまでの数年間家族ぐるみの付き合いをしていたし、その中で泰継の真っ直ぐさと花梨への想いは伝わっていたのだろう。
 実際、泰継は本当に紳士であり、時たま思いも寄らない行動で花梨を驚かせるが、花梨が嫌がることを無理にしたことは一度もなかった。むしろ、花梨は「もっとわがまま言ってくれればいいのに」とまで考えていた。己をないがしろにしがちな恋人に、もっと甘えてほしいと思っていたのである。
 鶴の一声ならぬ親の一声に動揺しつつも泰継に同居の件を打診すると、泰継は一も二もなく提案を受け入れた。
「私はどこに住むのでも問題ない。共に暮らすのが心安まるのであればそれもよかろう」
 そう言って目元に笑みを湛え、ふわりと髪を撫でる。
 泰継は花梨に甘かった。

 そうして、初めての親との別居生活、初めての異性との同居生活が始まった。
 始めは長いと思っていた最後の学生生活は、勉学にアルバイトに家事にデートにと慌ただしくしているうちに、あっという間に過ぎていく。花梨の世代の就職活動が始まったのは、卒業まであと一年足らずとなった頃合いであった。
 その頃には泰継の異世界への不安も薄れ、仕事においても安定した収入を得られるようになっていたため、花梨は就職について彼に言ってよいものかどうか逡巡していた。
(私は家にいたほうがいいのかもしれない。家にいて、仕事から帰った泰継さんを、おかえりって迎えてあげるほうがいいのかもしれない)

 あれこれと迷った花梨は、一大決心のつもりでリクルートスーツ一式を購入し、泰継に就活宣言をした。
 ところが泰継の反応は、
「この世界では多くの女性が働きに出るのだな」
と呟くくらいで、特に衝撃を受けたようなそぶりも見られなかった。
 泰継に反対されるかもしれないと心配していた花梨は、新品のスーツを手にほっと息をついた。

 しかし、安心していたのも束の間、彼女は別のことで頭を悩ませることとなる。以前より願っていた泰継の「わがまま」が、忙しく歩き回る花梨への不満として表出したのである。
 家にいない時間そのものは以前とそう変わりはなかったが、泰継が気に入らないのは帰宅した花梨がいつも何かに悩んでいることだった。
 履歴書の内容だとか、筆記試験の勉強だとか、面接の準備だとか、何かあるごとに眉間にしわを寄せている花梨の姿が、泰継は気に入らない。

 「人」となってからこちら、泰継の気を読む力は多少鈍ったが、花梨に対してだけは以前と変わらぬ鋭敏さを保っていた。
 黒いスーツに身を包んだ花梨からは、いつも乱れた気を感じる。乱れの原因はその時々で不安であったり、緊張であったり、高揚であったり、また落胆であったりする。花梨は愚痴のひとつも漏らさなかったが、「就活」は花梨の明るさを奪っていく。
 泰継は未来を選び取ろうとする花梨が日に日に疲弊していくのを見るのが堪らなく嫌だった。

(今までもバイトで帰りが遅くなることはあったのに、どうしてだろう)
 思いをなかなか口にしない泰継を前に、花梨は万策尽きたとばかりに座り込む。
「泰継さんは何が気に食わないんですか? 就職活動に反対してるわけじゃないんですよね」
「無論だ。しかし」
「さっぱり分かんないです。本当は反対なんですか?」
「違う。そうではない……お前の気が、乱れている」
「気?」
 京を離れてからしばらく耳にしてこなかった言葉が花梨の鼓膜を揺さぶった。
「その装束を身につけると、お前の気が乱れる。出かけて帰ってきたときには更に大きく酷く、気の流れが乱れている。家で書類に向かっているときもそうだ。『就活』がお前の理を歪めている気がする。それが嫌なのだ」
 ゆっくりと、だが確実な口調で、泰継は自分が感じていた不快感を吐露した。
「つまり、私が必要以上に疲れている感じがするってことですか?」
「そうだ。乱された気は日に日に力弱くなっている」
 泰継は、まるで自分の気も弱まっているかのように沈痛な面もちで言葉を続けた。
「何かに悩んでいるようすでも、お前は私に一言も泣き言を漏らさない。吐き出さない思いがお前の中に染み込んで、お前を溶かし尽くしてしまうような気がする。そんな気がしてならないのだ」
「そんな、泰継さん」
 思いも寄らない告白に、当の本人は目をぱちくりさせた。
「確かに悩みがないって言えば嘘になりますけど、でもそれは私の問題だし、泰継さんに迷惑かけるわけには」
「私は悩み事を相談するに値しない存在か?」
「そうじゃないです! なんでそうなっちゃうんですか。私だって、泰継さんと同じこと考えるんです」
 花梨は一度目を閉じて、一息ついてから再び口を開く。
「私のうじうじしたとこを見せて、泰継さんまで暗い気持ちにさせたくないんです。もう大人にならなくちゃいけないし、誰かに慰めてもらうことは卒業しなきゃいけない。泰継さんに話したくないんじゃないんです。私のことは、私が考えて、私が決めなくちゃいけないと思うんです」
 花梨は泰継の目を見据えて思いを語る。
 花梨が自分に与える影響を案じていたことにまで想像が及ばなかった泰継は、しばらく花梨の言葉の意味を考えていた。

 言葉の意味を考えること、これは泰継が「人」になってから身につけた能力である。
 自我を与えられて九十年、それまで泰継にとっての「言葉の意味」は、ひとつひとつの単語の意味の複合でしかなかった。
 それが、涙を流して以降、人が発する言葉には感情が大きく関わっているのだと考えられるようになった。それは神子との精神的な交流のおかげでもあったが、泰継自身の言葉の扱い方の変化が理解に大きく貢献していた。
 目の前にある事実や客観的な判断以外からも、言葉が生まれ出ずることを知った。見聞きはしても理解が及ばなかったそのことに気づいた瞬間、泰継は急速に「人間」に近づいたような感覚を覚えたのであった。

「花梨は、私に心配をかけまいとしていたのだな」
「そうです。それに、不安を言葉にしたら、ますます不安になっちゃうから」
「話したくないのであれば無理に口にすることはない。しかし、心配をかけまいとして口を閉ざしているのは、その方が気がかりだ」
 そう言うと、床に座っていた泰継は片手を伸ばして花梨を呼び寄せ、膝の上に座らせた。
 小さい背中を抱きしめて、その肩に顎を乗せる。
「お前が弱ると、私も弱る。それならせめて、側でお前の温もりを感じたい。悲しみを感じるのはどこででも、誰とでもできる」
 ひんやりと冷たい花梨の膝を手のひらで包み込んで、泰継は少し寂しそうに微笑んだ。

 泰継にこんな表情をさせないように、こんな表情を見なくて済むように、胸に渦巻く感情をこの部屋に持ち込まないようにしていた。互いの平穏を願った行為が、互いの不安を招いていたのだ。
 花梨は泰継に向き合い、左手で彼の頬を撫でた。細い親指が、かつて宝玉のあった場所を愛おしげに滑る。

「寂しい思いをさせてごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんですよ」
「いや、謝るべきは私だ。自分の感情でお前を縛り付けようとした」
「そんなことないです。ちょっと困ったなとは思いましたけど、私は嬉しかったんですよ。泰継さんが、やっと甘えてくれたと思って」
 思わぬ発言に怪訝そうな表情を浮かべる泰継の姿に、花梨は少し笑った。
「だって、泰継さん、私の言うこと全部肯定してくれるから。それも嬉しいですけど、泰継さんが気持ちを表現してくれるのはもっと嬉しいです」
 花梨の言葉はやはり難しかったらしく、泰継は再び考え込んでしまった。
 おのろけトークを分析しようとする恋人の真剣な表現が無性に愛しくて、花梨はその顔に頬ずりをした。

「もう時間ですから、行かなくちゃ」
「そうか。持ち物は揃っているか? 忘れ物は」
「大丈夫です」
「嫌なことがあれば、私に話して忘れるといい。忘却は人間の美徳だ」
「忘却といえば、泰継さん、昨日トイレの電気つけっぱなしでしたよ」
「そうだったか。私も忘れっぽくなったものだな」
 真面目に返答するのがおかしくて思わず笑うと、泰継もつられて笑い出した。

 パンプスを履いて、玄関先に立つ泰継と向かい合う。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
 いつかは台詞のやりとりが逆になるかもしれない挨拶をして、花梨は家を出た。
 脚に馴染んできたヒールがアルファルトを踏みしめる。
 高倉花梨の一日が始まった。